群馬県の県庁所在地はなぜ前橋市?高崎ではない理由
群馬県の県庁所在地
県庁所在地
前橋市
県庁所在地の住所
〒371-8570群馬県前橋市大手町1-1-1
県庁舎
群馬県庁は33階建ての建物です。
32階には展望台、31階にはレストランもあり、市民も多く利用しています。
県庁の敷地内には広場もあり、住民の憩いの場となっています。
前橋市の概要
前橋市の概要について解説していきます。
前橋市の人口
前橋市の人口は高崎市に次いで第2位の約33万人です。
前橋市の由来や成り立ち
もともとは厩橋(まやばし、うまやばし)と呼ばれており、江戸時代に「前橋」になったとされています。
明治時代には製糸業が有名となり、戦後には積極的に工場を誘致して多くの製糸工場が建てられました。
利根川や広瀬川が近くに流れており、市の中心では水質のよい地下水が水道水として供給されています。
前橋市の気候
前橋市は全国の中でも暑い地域として知られています。
これは市全体が内陸部にあり、地面が温まりやすいためであると考えられています。
平成13年7月には最高気温40度に達し、平成の記録を更新しました。
また、冬は新潟県方面からの冷たい風が吹き、雪も多い地域です。平成26年には積雪量76cmの大雪を観測しています。
前橋市が県庁所在地になった経緯
次に、前橋市が県庁所在地になった経緯について解説します。
第一次群馬県の誕生
群馬県は明治4年の廃藩置県で誕生しました。これを第一次群馬県と呼びます。
その当時群馬県の県庁所在地は高崎市でした。
県庁の庁舎が高崎城内に置かれていたのですが、高崎城の中に軍事施設を作ることになり、県庁を前橋市に移転しました。
第二次群馬県の誕生
明治6年、群馬県と入間県の知事を兼任していた人物がこの2つの県を合体させて熊谷県としました。そして県庁は熊谷に移転することになります。
明治9年になり、熊谷県は2つに分割されることが決まります。南部は埼玉県に、北部は群馬県になったのです。
そして再び県庁は高崎市に移ります。しかし以前の庁舎があった場所は軍事工場として使用されていたため、安国寺という場所に県庁を置きました。
効率重視の県庁移転
県庁を置いた高崎市の安国寺はかなり土地が狭く、多くの施設を置くことができませんでした。
そのため庁舎の機能を近くに分散させることになり、非常に県庁としての機能と効率が悪くなってしまったのです。
そこで当時の知事が前橋城の敷地内に県庁を置きたいと、内務卿であった大久保利通に進言しました。
その進言が認められ、県庁は前橋市の前橋城敷地内に移転されました。
高崎市住民との約束
県庁が高崎市から前橋市に移転する際、知事は高崎市の住民に「前橋市に県庁を移転するのは一時的で、土地の整備ができたら高崎市に戻す」という約束をしていました。
しかし実際には前橋市の方が土地活用の面で便利で、しかも地元の生糸商が多くの寄付をして前橋市に県庁を誘致していたこともあり、住民との約束が叶えられることはありませんでした。
県庁移転問題が裁判沙汰に
当初の約束を叶えられなかった高崎市の住民が「裏切られた」と県庁に抗議すると、県庁移転問題は裁判沙汰へと発展していきました。
明治15年、裁判により高崎市は敗訴、県庁が前橋市に置かれることが正式に決定します。
そして県庁を誘致していた地元の生糸商、下村善太郎が初代の前橋市長に就任しました。
以上が群馬県の県庁が前橋市になった経緯となります。
高崎市が県庁所在地ではない理由
最後に高崎市が県庁所在地になれなかった理由についてまとめておきます。
高崎市は県庁所在地決定の経緯で何度か県庁所在地として機能していた時期もありました。
しかし県庁が置かれていた場所が軍事工場になったり、他に適当な土地がなかったことから県庁は前橋市に移ることになります。
このように、土地の問題が大きく障壁となってしまったのです。
また、前橋市にはのちの市長となる下村善太郎の存在がありました。
自分の私財を投じて県庁を前橋市に誘致できる権力者がいたことも、高崎市が前橋市に敵わなかった要因です。
下村善太郎は前橋市に県庁を誘致し、建物を建設する費用として約20億円(当時の価格で1万ほど)を寄付していたとも言われています。
たった12kmしか離れていない前橋市と高崎市ですが、様々な要因が重なって県庁所在地は前橋市に決定することになったのです。
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